筑紫さん 2007年度ラスト講義

土曜日にあった筑紫さんのラスト講義は、茨木のり子さんの「自分の感受性ぐらい」で終わりました。


最近、金八先生でもとりあげられたりして、茨木さんの詩は注目されてますが、筑紫さんによると、この詩は1975年の詩だそうです。


筑紫さんは、この詩が今の時代にも合うということは、それだけ世の中が変わっていないということではないかと言われてました。


自分の感受性を保つのは難しいし、最近は「KY」という言葉もあるし、いかに世の中や周囲に屈伏せず生きるかというのが、情けない僕も含めて、たくさんの人に問われているのかなというのを思いました。


あと、講義の休憩時間には筑紫さんと瀬戸内寂聴さんと立命館大学のゼミ生が源氏物語について対談したNEWS23のVTRの放映もしていただきました。


その中で「失恋する自分に酔う美意識」について、触れてた人がいてんけど、自分はまさにそれかなと思いました。


恋したことはないんやけど、自分が障がいで身動きができないことに、このBLOGに書いて酔っているだけじゃないかなと、なんか思いました。


だから茨木さんの詩のように、自分の感受性を保つために、ここで自分に酔うだけじゃなく、今年は動きたいなとは思ってるんやけど、なかなかできないというのが最大の苦しみですね、今の。


自分のことは置いといて、筑紫さんの講義ですが、全てを講義の総括も含めて、「なぜ学ぶのか」というのが、ラスト講義の大きいテーマでした。


筑紫さんは京都で学ぶことは非常に意味のあることだと指摘され、五条坂の陶工、河井寛次郎の「手考足思」という「体を動かすことによって身につく」という意味の言葉を紹介されました。


僕は河井さんの言葉を聞いて、なるほどなと思ったんですが、筑紫さんが他に紹介してくださった「新しい自分を見たいので、仕事する」という言葉は、今の自分がやりたいこと、そのままだなと思いました。


更にここ最近、日本の高校生の学力がOECDのテストで低下していることに触れ、学力以前に学ぶ意欲や学んだ上での希望がなくなってきていると指摘され、希望学という学問の話をされました。


ここも真剣に聞いたのですが、希望学で希望がかなえられる定義は、この3つ・・・


1. ある程度の豊かさ(重病でない・貧しくない。)

2. 人との関係が築ける(築けない孤独な人は希望が持てない。)

3. ここにずっといても先が見えない・ここにいると先が見えてしまうという心配


だということを某大学の先生は挙げていたそうです。


しかし、筑紫先生さんは、貧しくても希望を持つし、孤独な人でも希望を持つと批判され、希望というのは見えそうで見えないとき起こるのではないか、つまり物語や余白があるもの、のりしろのようなものではないかと言われてました。


僕は見えへんし関係ないかと思ったんですが、この分析は面白かったです。


更に最近、流行の品格という言葉を否定し、品格を持つぐらいなら教養を持った方が、まだマシだということを指摘されてました。


ちなみに中央教育審議会が1970年に「新しい時代の教養教育について。」という報告書を出していたそうですが、その教育で扱う教材に盛り込まれていたのが、10月の講義テーマの「武士道」、11月の講義テーマ「菊と刀」だったそうです。


筑紫さんが思う教養は「知恵と判断力をどう見につけるか。」ということだそうですが、鑑定で知られた北大路魯山人も「目養い」という言葉で、このことを言っていたそうです。


その上で、歴史の問題も多角的に見ることが重要だと指摘され、1月26日(土)から上映される「母べえ」を例に挙げ、戦時中の世の中が一定の考え方でないといけなかった中、母べえを支えたのも教養だったと言われてました。


更に初回の講義で挙げた「判官びいき」が、空気の支配によって、最近の日本の選挙を見ていると、なくなってきていると指摘され、同調圧力は「既成事実に屈伏している」のと同じことだと言われてました。


ただアメリカの選挙は、その逆を行っていると、オバマ有利の州で、ヒラリーが勝ったことを例に自分が考えていたことは思い込みだったところもあると修正を加えた上で言われてました。


その上で年末の多事争論のテーマであった「自己責任」を解説され、アメリカのサブプライムローンや日本の年金とC型肝炎の問題を挙げ、今の世の中、自己責任を感じるべき人が感じてなくて、自己責任を感じなくていい人が感じていると、指摘されていました。


続いて教養の必要性として、今回の予習の課題であった丸山眞男論文を読み解くためには読解力が必要で、読めないということは読解力がない、だからこそ教養が必要だと言われてました。


ちなみに今回の予習で配られたのは、「である」ことと「すること」と「超国家主義の論理と心理」だったんですが、先生曰く、「である」ことと「すること」は高校の教科書に載っていたこともあるらしく、これらが全く読みこめない大学4年生であることを反省しました。


あともう1つ配られたのが、このBLOGでも触れたことがある赤木智弘さんの「31歳フリーター、希望は戦争。」という論文で、筑紫先生はこの論文の気持ちは分かるが、言っていることはゴジラと一緒で、壊しても何も見いだせるものはないと言われてました。


最後に憲法のことについても言われたのですが、「憲法を変えろということは簡単ですが、ではあなたたちは、きちんと憲法を使いこなせていますか?」という質問を私たち受講生に問われました。


僕は憲法の問題を4年間、勉強してきたものの、この問いに答えられるほど使いこなせてはいないなと筑紫さんに言われて、改めて思いました。


筑紫さんは丸山眞男の「である」ことと「すること」は12条にあたり、23条はこうやって大学で講義ができる自由で、25条は最低限度の生活を保障するという条項だと言われていたんですが、いい憲法があるのに、達成できていないし、守られていない、今の状況をなんか、もどかしく感じました。


筑紫さんは全ての総括で「学ぶ意欲をつけさせるには、学ぶというのが面白いと見につけさせるのが大事だ。」と指摘、講義はそこで終了しました。


そのあと、VTR上映や質疑応答があり、本当の一番最後に受講生全員へ2つの言葉を送っていただいたのですが、1つはさっきの茨木のり子さんの言葉。


そして、もう1つは寺山修司さんの言葉を参考に筑紫さんが作られた「書を持って、街へ出よう」という言葉でした。


教室にこもっているばかりではなく、そこで得たものを街で実際に見て経験するという意味なんですが、今の自分にも、これがそろそろ必要ではないかと、この言葉を聞いたとき、感じました。


あと、この言葉を言われていたときの先生の様子が、すごく印象にのこりました。

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